アーティスティック・ディレクターメッセージ
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スヴェトラーナ・ボイム
私たちが生きているのは、友人を[SNSで]追加する世界であって、友情(友愛)の世界ではない。友人はおおむね友情以上の何かを示す婉曲表現になった。「友人」とは、ホームページを埋めつくす目立ちたがりの知り合いか、あるいはそこを避けようとする、目立たない恋人のことだ。
友 情という言 葉は、英 語では自 由〈freedom〉、ドイツ語では喜び〈freude〉、ロマンス諸語とギリシア語では、友愛(情動的な愛)〈philia〉という語源に由来している。ロシア語では「友人」を意味する〈drug〉という言葉は、「他者」と関係しているが、外国人という意味の他者ではない。それには〈inoi〉という別の言葉があるからだ。他者性という側面が重要なのは、友情にはないものがたくさんあるからである。私の理解では、友情は、慣習的な親密さではなく、男たちの連帯や女たちの連帯、あるいは人脈づくりの機会でもない。むしろ友情とは、最終的に完了することのない選択的親和性であり、プロットや場所のない社会における関係性であり、それ自身のための経験である。友情は必ずしも民主的または平等主義的ではなく、むしろ選択的であり完全に包括的でもない。
ハンナ・アーレントは真剣な友情こそが人生を生きる価値のあるものにしていると述べている。しかしアーレントはまた「たったひとつのもの」としてのロマンティックな愛——彼女はそれを「二人の全体主義」になりうると考えていた——と友情を混同すべきではないと強調してもいた。それは恋人たちの周りにあるすべての世界を消滅させてしまうからだ。友情は、ルソーが提唱する親密さ、つまり、溢れるナルシシズムのエコーチェンバーでもない。「われわれは友情を単に親密さの一現象としてみることになれてきています。友人たちはこの親密さのなかで世間やその要求に悩まされることなく、相互に胸のうちを明しあうというわけです」。(1)じっさいアーレントにとって、友情とは、正確には世間に悩まされ、同じ反応を——いわば、存在の次元を拡張し、この世の舞台で共創することによって——返すことなのである。この舞台には、独特の舞台芸術がある。明るく照らされているわけでもなければ、完全に啓発されているわけでもなく、光と影の相互作用によって織りなされる明暗法のセノグラフィなのだ。
アーレントは「暗い時代」の人々について書いているが、極限の状況においては、光明は哲学的諸概念からではなく、男女が光をともし、与えられたわずかな時間を越えて輝く「不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光」から発するのだと考えていた。「男女がその生まれの如何にかかわらず、互いの閃光を反映しあう」この光明の空間は、私たちが住む現れの世界に光を放つ人間らしさと友情からなる空間である。言いかえれば、友情とは、すべてを明瞭あるいは不明瞭にすることではなく、影と共謀し、戯れることなのである。その目的は啓蒙ではなく光輝であり、盲目的な真実を探求することではなく、不意に出会う明瞭さと誠実さを探求することである。
友情の哲学は古代ギリシアとローマにまで遡る。そこでは、友情は「活動的生活」〈vita activa〉と「観照的生活」〈vita contemplativa〉の両方の要であり、政治の要であり、哲学[それ自体がフィリア(philia)と語源的に関係する]の要だった。これらの哲学は政治的なものと非政治的なもの、世俗的なものとユートピア的なものとのあいだで交替してきたが、ジャック・デリダ、ジャン=リュック・ナンシー、ジョルジョ・アガンベンによる同時代の分析を含め、これらはすべて主として男性の友情を語っている。女性同士の友情は、なぜか哲学的な重み〈gravitas〉が欠けていると思われているのだ……。
ハンナ・アーレント自身とメアリー・マッカーシーとの意外な関係がもたらすのは、これらの問題を詳細に検討する方法である。二人の女性は情熱的に非婉曲的な仕方で友情を理論化し実践したが、彼女たちは一連の表現でしか説明できないタイプの関係をもっていた。その表現がもつ撞着語法的な特徴によって、私たちは二人の情熱の核心には達するが、ほとんど抑制することのない彼女たちのあけすけな感情的告白の様式をみることはない。それは、明光な不透明さ、ディアスポラ的な親密さ、非対称的な相互関係、無作法な機転、同性愛的な異質性だ。
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マッカーシーとアーレントのような二人の友人が世界について語るとき、語っているのは誰なのだろうか。手紙を読みながら、私たちは声の多様性に感銘を受ける。優しい気遣い、相手の存在に対するせっかちな要求、悪戯や遊び心、鋭い知的観察、哲学的議論。言いかえれば、親しい友人、作家、政治評論家、哲学者、冒険家の声だ。友情からなるこの世俗的な空間だけが、労働、規律、あるいは社会的役割のどの区分にもあてはまらない自由の豊饒さを可能にしているのである。
友人たちといると、ひとは複数の対話に参加し、独居(solitude)を分かち合うことができる。アーレントは、独居(solitude)と孤独(loneliness)は違うと述べている。というのも、私たちは独居のなかでは自分自身や世界と対話しているが、孤独は私たちを孤立させ、口ごもらせてしまうからだ。独居を経験するとき、私たちは自らの内面の舞台でギリシア人が「ダイモン」と呼んだものと遊んでいる(悪霊と混同しないようにしよう。ダイモンは目に見えない私たち自身の声なので追放されるべきではない)。あなたが真の友人と話をするとき、彼女が見ているのは私たち誰もの肩越しで話しているダイモンであり、あるいは、おそらく私たちのダイモンたちが互いに友好的に向き合っているのだ。一人のよき友人といるとき、私たちはよき多様な仲間である。そのような深い友情のなかで、私たちはいわゆる「真の自己」という閉所恐怖症へと頑なに後ずさりするのではなく、現実の潜在的な自己を増殖し、創造し、発見するのだ。友情は閾を冒険する領域へと私たち自身を拡張するものなのである。
註:
(1) ハンナ・アレント『暗い時代の人びと』(阿部齊訳、ちくま学芸文庫、2005年、p.45)
以下の文献から抜粋し、翻訳した。
Svetlana Boym, “Scenography of Friendship,” Cabinet, Issue36 “Friendship” (Winter 2009–2010).
オンライン掲載:http://www.cabinetmagazine.org/issues/36/boym.php
翻訳:清水知子