1975年愛知県生。北九州出身。京都大学法学部卒。小説家。
1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。著書は『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』、『ドーン』、『かたちだけの愛』、『空白を満たしなさい』、新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、など。新著は、小説『透明な迷宮』(新潮社 6月刊行)。
ヨコハマトリエンナーレ2014は、展示作品のセレクションから展示方法に至るまで、巨視的にも微視的にも、森村泰昌氏の考えに考え抜かれた意図が徹底されていると感じた。
一個人の仕事としてはちょっと比類ないもので、日本でも各地で開催されるようになったビエンナーレ、トリエンナーレの類の中でも、格別にユニークなものとなっている。会場を訪れる人は、普段の鑑賞とは違って、やはり森村氏自身による一点一点の解説に耳を傾けながら、一個の芸術家が、一個の作品と対峙して、いかなる思索を行ったのか、じっくり目を凝らすべきだろう。
「忘却」というコンセプトについては、最近、私自身もよく考える。消費社会のスピードに対して、守るということの意義を説くのは、苦もなく容易である。私は必ずしもそれを否定しないが、しかし、私たちの住むこの世界には物理的な限界があり、私たち自身の生には時間的な限界がある。実のところ、私たちが、今日の――それなりに――私たちに居心地の良い世界に住むことが出来ているのは、過去の人々や事物が、極控えめなやり方で、すっかり忘却されたままになってくれているからである。もしそれらが細大漏らさず保存されていたならば、私たちの今日は過去からの圧迫によって、最早新しいどんなものも容れる余地がなくなってしまうだろう。
私たちは、私たちが価値があると思うものを、本当に未来に残しても良いのだろうか?
どんな人間であれ、結局は、この世界を束の間、利用することが許されている借家人である。我々は、当然にやがてはここを去らねばならないが、その時に、次に住む人に、「自分が選んだこの家具は、物凄くいいものだから、あんたも絶対使った方がいい。」と、机なりベッドなりをそのまま残してゆく、鬱陶しい〝前の借り主〟にはなっていないだろうか?
それは一種の暴力で、むしろすっかり空っぽにして場所を譲ってくれた方が、ありがたがられるということだってある。私は、重宝される置き土産があることも重々承知の上で、敢えてそう言っているのである。
これほどまでに価値観が多様化し、社会の変化が速くなった今日、私たちは何をどう残し、記憶し続けるべきか?
そんなことを改めて深く考えさせられた展示だった。
アーティスティック・ディレクター 森村泰昌よりお返事
平野啓一郎 様
おひさしぶりです。「忘却」というのは、平野さんがおっしゃるように、じつに多様な側面を持っています。忘れてはならないのに、忘れてしまっていることがある。でもいっぽうでは、忘れてしまわないと次に進めなくなることもある。小説家や画家が、これまでの自分の作品を庭で全部燃やしてしまうなんていうこと、昔の逸話でよく聞きました。逆に自分の書いたり描いたりしたものは、すべて保管しておくタイプのひともおりますね。平野さんはどちらのタイプでしょうか。
本展出品作家できわめて重要なのに、まったく論じられない作家がおります。スタンリー・ブラウンというひとで、ジョン・ケージやカジミール・マレーヴィチとともに展示しています。この作家はすべてのドキュメンテーションを拒否しているので、カタログ、ウェブ、その他いっさい、作品写真が掲載されません。彼との連絡は、手紙か電話か直接会うか、この三択のみ。メール、ファックスはなし。そして飛行機には乗りません。「忘却」についての作品ではなく、制作と人生の態度そのものがすでに「忘却」哲学なんですね。
ああ、平野さんとはもっと話したいけど、長くなるのでこのくらいで留め置きます。御来場ありがとうございました。