1951年ロンドン生まれ。ブロードキャスター
ロンドン大学日本語学科を卒業後、1974年に音楽出版社の著作権業務に就くため来日。
現在フリーのブロードキャスターとして活動、「Barakan Morning」(インターFM)、「ウィークエンド・サンシャイン」(NHK-FM)、「The Lifestyle Museum」(Tokyo FM)、「ビギン・ジャパノロジー」(NHK BS1)などを担当。
国際的なトリエンナーレなどでは新しい作品を紹介することが「常識」だそうです。
音楽の世界などでもいつも「最新情報」が重んじられますが、一度紹介されたものは、新作が次々と目まぐるしく回転する中でいつの間にか忘れられてしまうことが多いです。
今回のヨコハマトリエンナーレ2014のタイトルの中にある「忘却の海」は、ぼくにはそういうことを連想させます。アーティスティック・ディレクターの森村泰昌さんが敢えて過去の作品も多く選んでいることにまず好感を持ちます。べつに新しいか古いかが問題ではなく、作品にどんな魅力があるかが問題です。それは最終的に個人の主観ですが、ラジオ番組の選曲を合議制で決めることが考えられないぼくにとって、それでOKです。
ラジオといえば、2本のアンテナが突き出る長方形のコンクリートの塊の作品World Receiver(注1)があります。
ラジオの現状について色々と考えさせますし、Tシャツのデザインにしたくなるようなカッコよさもあります。
もうひとつ、Tシャツにしたいグラフィックの作品がありました。
「このことについては、黙っていることにした。」(注2)
皆が黙っていると、知るべきことがどんどん忘れられてしまいます。メディアで働く人間として、伝えるべきことを伝えようとしない臆病なメディア関係者全員にこの言葉を印刷したTシャツを渡したいです。
戦時中に国威を発揚する文章の展示(注3)があります。あまり目立たないものですが、それらの本を書いた人たちは皆戦後人気作家になったそうです。彼らはそういう過去のことを忘れたいでしょう。誰でも忘れてしまいたい恥ずかしい思いがあるはずです。最近ヨーロッパで「忘れられる権利」を巡って論争が巻き起こっているほどです。しかし、戦争が始まると人間が様々な理由で不本意なことをやることもあります。その可能性がまた浮上した今の日本で、こんなことについて反省する価値があるのではないかな。
このトリエンナーレのいたるところに、ぼうっと見ていたい作品があります。
ぜひ時間に余裕を持って見ていただきたいものです。
(注1)イザ・ゲンツケン《世界受信機 / World Receiver》2011年
(注2)木村 浩《言葉 / Language》1983年 4枚組より
(注3)大谷芳久コレクション / Books from Otani Yoshihisa Collection より
アーティスティック・ディレクター 森村泰昌よりお返事
ピーター・バラカン 様
音楽も美術も、流行とどのようにつきあうか、これはなんというか、なかなか難しい駆け引きの世界ですね。流行というのは、やっぱりそれが流行る理由があるのだし、でも、流行るものはなんでも大歓迎というのは、かなり危険な状況を生み出してしまいかねない。とはいえ、何事も流行りすたりとは無関係にやっていくというのも、どこかひとりよがりに思えます。
音楽においても美術においても重要なのは、私は批評精神だと思っています。
音楽も美術も、楽しめればそれでいいじゃないかという考えもあるとは思いますが、批評精神のない楽しみって、なんだか深く心に刻み込まれないような気がします。イザ・ゲンツケンのコンクリートラジオ、木村浩の「そのことについては黙っていることにした」という言葉を書いたタブロー、大谷芳久コレクションの戦争を賛美する文学資料など、ピーター・バカランさんが選んでくれた作品や資料は、どれもこれも批評精神のかたまりみたいな展示物でした。そこに反応していただけたのは、展覧会を作ったものとしては、やはり嬉しい。
ジョン・ケージの《4分33秒》の楽譜とかは、いかがだったでしょう。五線譜はあっても音符はなにもない楽譜。つまり沈黙が演奏されるという、なんとも人を食ったような、それでいてどこか無の哲学を思わせる音楽。これもまた批評精神のかたまりみたいな「音楽」だと思うのですが。ところで、これはラジオでは放送できるんだろうか。ラジオでは無音は音ではない。だから《4分33秒》の演奏というのは、意外にもそうとうにビジュアルアートにシフトした表現なのかもしれません。